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宮里善昌 最後の 医介輔 が 引退

戦後 沖縄 で、へき地・離島の住民の
命を支え続けてきた 医介輔制度。

宮里善昌 さん(87)
うるま市 勝連平敷屋 (かつれんへしきや)は
県内唯一の 医介輔 として 平敷屋診療所 で
診察 を続けてきたが、10月6日に 同診療所 を閉めた。

最後の 医介輔 だった 宮里 さんの引退で、
戦後 ・ 復帰後 の 地域医療 を支えた
約60年の 医介輔 の歴史が幕を閉じ、
戦後 沖縄 の 時代を語る象徴がまた一つ消えた。

宮里善昌 最後の 医介輔 が 引退 へき地・離島医療支え60年

以下、
Yahoo! ニュース 。
最後の医介輔が引退 へき地・離島医療支え60年
琉球新報 から全文。


医介輔 は、沖縄・奄美だけに認められた 特別医療制度 。

激しい沖縄戦で60数人まで激減した県内の医師不足を補うため、
1951年に米国民政府が医師助手などを対象に試験を実施し、
県内では 宮里さん を含む96人が合格。

復帰時も、へき地医療 は改善されていないとして

「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」

で制度は存続した。


宮里さん は

「産婦人科など何でも診ないといけなかったが、
 勉強になった。患者に対する優しさが医の原点」と語る。


ソロモン 諸島 で 補助衛生兵 として 終戦 を
迎えた体験がある宮里さんは

「餓死する仲間が最期に口をもぐもぐさせていた」様子を目にし、

勝連 地域 から12、3人は ブーゲンビル島 に行ったが、
生き残ったのは 宮里さん 一人。

「人を救うために生かされた」と感じたという。


医療保険制度 も 確立していない時代、
貧しい家からは 診療代 を取らなかった。

台風時の往診や波が荒れる中を

「行かなければならない」とくり船を出し、

長女の富山光枝さん(67)
うるま市 勝連平敷屋 (かつれんへしきや)も

「命がけだった」と当時を振り返るほど。

時には医師からばかにされる苦い経験もあった。


「90歳までやる」と
周囲に話していた宮里さんに

「もっと続けてほしい」との声もある。

しかし、聴診器を使う耳が聞こえづらくなり
「誤診しては大変」と引退を決意した。

「沖縄での医介輔の目的は果たした。
 後世につないだという安心感があった」と悔いはない。

「今後は無理しない程度に、のんびり暮らしたい」と
今は畑仕事に熱中する日々だ。

ここまで


「もっと続けてほしい」との声もあるようですが、

ここまで、やり遂げた
宮里さんの意思を尊重してあげたいですね。

残された、時間を
のんびりと、穏やかに過ごされてください♪


参考までに。

介輔(かいほ、Medical Service Man)とは、
第二次世界大戦後のアメリカ占領下の
沖縄・奄美諸島において認められた
代用医師の制度である。

医介輔(いかいほ)とも呼ばれる。

代用歯科医師の場合は
歯科介輔(しかかいほ、Dental Service Man)という。


医介輔 の 公認時(1951年)における登録数。

奄美群島(28人):1953年の奄美の日本復帰時に資格を失う
沖縄群島(74人)
宮古群島(4人)
八重山群島(19人)


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